弘福院|真言宗豊山派 北越谷の寺院
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弘福院の由来

  『新編武蔵風土記稿』によると、当院は大澤山観音寺弘福院と称され、本尊には阿弥陀如来を安置し、末田の金剛院(現在のさいたま市岩槻区)の末で、その門徒によって始められたと言われています。また、町の歴史を綴った『大澤町古馬筥』には、幕府御支配の為の書上帳に、慶長6年(1601年)には過去帳の記載があったとされています。

  以前この地域には大澤七池と呼ばれる池があり、そのうちの一つから正観音菩薩像が発見され、池畔に観音堂を建て、この観音様を祀ったのが弘福院のはじまりと言われています。よってこの池は観音坊池と呼ばれました。それが所以なのか、寺の近隣では戦後暫くまでは「弘福院」というよりも「観音様」の愛称で親しまれていたようです。

  慶安年間(1648年~1652年)頃までは、観音坊池池畔にありましたが、その後徳川幕府の時代となり、四代将軍家綱のころ、日光街道に近い現在の地に移転したと思われます。移転後、日光街道からの参道を確保する為、時の住職の苦労が文献を通してうかがわれます。

  そして明和年間(1764年~1772年)、隆尊和尚の時、法流開基色衣地(宗派の定める色の衣を着けられる寺格)となり(『越谷市の史跡と傳説』)、この開基隆尊は安永3年(1774年)3月21日に遷化されています。

現在の伽藍

  弘福院の現在の伽藍は、中興第三世の祐宗和尚の代に、新伽藍建設委員会、檀信徒、寺院方関係者、建設・石材業者の御協力のもと、本堂・客殿・山門・庫裏・境内・駐車場等を一度に整備したもの(平成4年10月10日落慶法要)です。

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