弘福院|真言宗豊山派 北越谷の寺院
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真言宗について ~密教、奇蹟の伝播~

  弘福院は真言宗の寺です。

  6世紀、仏教が日本に伝来して、日本の都、奈良では南都六宗(三論宗・成実宗・法相宗・俱舎宗・華厳宗・律宗)が発展していました。これら六宗は、名称こそ別ですが、各宗の僧侶たちは仏教を研究する為、互いの寺院を行き交うような、いわゆる学派的な仏教でした。
  774年(宝亀5年)、空海(幼名)が生まれます。大学に進むも、役人への道に疑問を感じ、自分の進む道は仏教であると確信します。その後の山岳修行や神秘的な体験、『大日経』の存在が、当時先進的な教えであるとされた「密教」への強い関心を空海に抱かせるきっかけとなりました。
  そもそも密教はインドでおこり、その教えはぜんぞうこんごうぞうくうぞうなどによって唐(中国)に伝えられました。唐の都長安(現西安)では、しょうりゅうけいしょうにその教えが伝えられました。恵果和尚には数千人の弟子がいたにもかかわらず、密教の大事な教えを授ける器の者がいないと憂いていました。

  一方空海は、密教を求めて804年5月12日、唐に向けて出発しました。この時代は出発日を占いによって決定したので、渡航に相応しい時期を選べませんでした。これ以前の遣隋使船などは、九州北端から朝鮮半島へ向かい、その後陸伝いに進む事も出来たので、大陸へ渡るのは比較的容易でしたが、朝鮮半島の白村江の戦い以降、日本と同盟を組んでいた百済の国が敗戦した為、朝鮮半島に近寄ることが出来ず、九州北端から真西に向かって航路を取らざるを得ませんでした。つまり陸地に頼らず、台風の通り道を横切るかたちとなり、結局四隻のうち二隻は沈没し、目的地からはるかに離れた福州のせきがんちんより上陸するなど、幾多の困難を乗り越えてやっと唐に辿りつくことが出来たのです。当時、この条件で唐に渡る事が出来たのは、奇蹟に近いと言えます。

  空海は先ず西安の西明寺で般若三蔵について、いろんな国の留学僧と梵字などの勉強をしていましたが(805年2月)、その間に空海という日本の留学僧が非常に秀でている、と青龍寺の恵果和尚の耳に入ります。そして5月、空海は青龍寺を訪ねましたが、恵果和尚は空海に会った途端に密教を授けることを決めました。三か月の間に自分のもてる密教の全てを空海に授け、8月にはじゃの灌頂を済ませました。その時の空海の灌頂名が「遍照金剛」でした。それ以降、曼荼羅や密教法具などを作成し、恵果和尚から袈裟を頂くなど、日本に持ち帰るものを準備していましたが、恵果和尚は12月15日に亡くなってしまいます。灌頂を受けてのち、僅か4ヶ月の事でした。空海が恵果和尚から密教を授かる事が出来たのは実に8ヵ月という短い期間で、この短くも濃密な時間が、唐から日本への密教伝播ののりしろであったと言えます。これも実に奇蹟に近い事と思われます。ちなみに中国の密教は、この後急速に衰退してしまったと言われています。

  恵果和尚はかねてから空海に「この大事な教えをなるべく早く日本に持ち帰って、沢山の人に広めなさい」と使命を与えていました。その言葉に従い、たまたま日本から来ていた遣唐使船があったので、それに乗り込み帰国の途に就いたのです。普通なら、せっかく文化の最先端の西安まで来たのだから、もっと多くのものを学びたい、持ち帰りたい、と欲を出すところでしょうが、空海は朝廷から20年の留学期間が定められていたにも関わらず、翌年806年3月、西安を出発、恵果和尚との約束を胸に、足掛け僅か3年で帰国したのです。ちなみに空海が帰国の為乗船した以降、遣唐使は長い間派遣されなかったとのことです。これも密教伝来の奇蹟的一面だと思われます。

  留学期間を守らず帰国したので、暫く九州観世音寺に留まり都からの入京の許可をまっていた空海でしたが、時が味方してか、ついに入京、親しい嵯峨天皇の下、速やかに密教を広めることに専念します。そして都の教王護国寺(東寺)、修行道場に相応しい高野山金剛峯寺を賜り(その他多数の寺院あり)、また密教に関する数々の著作によって、これまでの日本の仏教の中に、大事な密教の教えの有り様をふさわしく体系化したのが、空海の開いた真言宗なのです。

豊山派

  空海が開いた高野山金剛峯寺には沢山の僧侶がおりました。金剛峯寺に行かれた方はよくお解りのように、中心部に沢山の寺院があります。密教を学びたい学侶たちが、それぞれの師僧について別々の寺院で学問に励んでいました。しかし中世(鎌倉時代)以降、高野山は勢いも衰え、教学の停滞期間が続きました。そんな中でひとつの興隆の波が興りました。覺鑁を筆頭とする大伝法院です。この流派には多くの学侶が集まり、隆盛しました。

  しかし勢いのある大伝法院は、それまでの高野山の古い系統の学侶との対立を生み、覺鑁率いる学侶たちは、仕方なく土生川(高野山の荘園、のちに現在の根来寺)に活動の場を移さねばならなかったのです。1143年、康治2年12月12日、覺鑁は49歳の生涯を閉じられます。しかし、らい僧正という方が出て、1288年、教学研究の場所である大伝法院を正式に根来寺に移します。根来寺は大いに繁栄し、その院の数は300~400もあったと言われています。頼瑜僧正は旧来の高野山の教学を、より発展的な教学に大成し「新義教学の祖」といわれるのです。

  この「新義教学」に基づき活動しているのが現在の真言宗豊山派と真言宗智山派です。

  (「新義」という言い方は、旧来の高野山の教学に対して使う言い方であり、高野山方は自らを「古義」とは言いません)

  根来寺は教学的にも大いに繁栄したことは前述のとおりですが、経済的にもその規模は70万石に達したと言われています。あの有名な加賀藩が120万石と言われますが、根来寺は一寺院での石高としてはかなりのものです。根来には僧兵も多く強大な力をもったので、豊臣秀吉の反目にあって1585年、天長13年に焼き討ちにあいます。
  根来寺の学頭であったせんにょは焼き討ちを逃れ、以後豊臣秀長(秀吉の弟)に招聘されて長谷寺に入山し、豊山派の派祖となります。この長谷寺が、真言宗豊山派の総本山です。

  一方、根来寺の一寺院であった智積院の玄宥は、関ケ原の合戦後、家康から京都東山の土地を与えられ、ここに智積院を再興し、現在の真言宗智山派の総本山となっています。

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